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2006年2月

2006/02/28

プライド 栄光への絆

製作年:2004年
製作国:アメリカ 
監 督:ピーター・バーグ

1988年、テキサス州オデッサ。パーミアン高校のアメリカン・フットボール・チーム“パンサーズ”は町全体の熱狂的な期待を一身に背負い、9月のシーズン開幕を前に猛練習に励んでいた。ついに始まったシーズン初戦、序盤は好調なパンサーズだったが、チームの中心選手、ブービーが膝を負傷してしまう…。

ゲインズコーチ(ビリー・ボブ・ソーントン)の言葉が感銘深い。「圧倒的に不利な状況の中で現実に向き合おうと決心すれば、思わぬ力が出てくる」とか、「完璧とは勝利することではない。君たちやその家族、友人たちの関係のことだ。完璧であれば、友達の目をまとも見て失望させていないと自信を持てる。そして、誠実に生きろ。誠実な生き方とはやれることを全部やったということだ。ベストを尽くし澄んだ目と愛情を持ち続けろ。それが出来たら完璧だ」など、静かに胸を打つ。スポーツ・ドラマに惹かれるのは、スポーツだけに留まらず人生全般にも通じる真理の一端を学ぶ事ができるからだ。

諦観しているようなコーチだが、彼も迷いの中にいる。ブービー(デレク・ルーク)の起用については判断に迷い、結果的に彼の選手生命を奪うケガを招いてしまう。彼は様々な後悔や反省を繰り返し、そこから最善の道を探ろうとしている。それが上記のような言葉を生んでいくのであろう。

学生達のエピソードも熾烈で切実であった。特にスター選手だった父と、大事なところでボールを落としてしまう息子ドン(ギャレット・ヘドランド)の葛藤が印象深い。そんな彼らのチャンピオンリングを巡る展開に最後は涙することになる。息子も耐えたが、父親も愛することを学んでいったのだ。

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2006/02/27

ホステージ

製作年:2005年
製作国:アメリカ 
監 督:フローラン・シリ

LAPDの凄腕交渉人として活躍してきたジェフ・タリーはある事件で交渉に失敗し幼い子供を救うことができかった。心に大きな傷を負ったジェフはその職を辞して、いまは小さな町の警察署長をしていた。凶悪犯罪とは無縁の平穏な日々を送っていたが、ある時、若者三人組による人質事件が発生してしまう…。

何故、マース(B・フォスター)がジェニファー(ミシェル・ホーン)に執着にしたのか。ここがポイントだ。母親を殺害し、その後に父親が自殺するところを目撃したという過酷な過去を彼は持つ。殺人や放火など凶悪犯罪を何のためらいもなく無感動に犯していく。この世の中を呪詛し、自分自身をも滅ぼしてしまいたいという破壊衝動を秘めている男だ。

そんな彼の心の中に母性を感じさせたのがジェニファーだった。彼にしか感じられない救いの心を彼女の中に見出してしまったのだ。こんな極悪非道な男にも救済を求める心が残っていたことが興味深い。このサイドストーリーが異彩を放っている。

本作品には、様々の親子の在り方が描写されている。事件を担当するジェフ(B・ウィリス)。監禁されてしまうスミス一家、彼らの家に押し入る犯人達。それぞれの家族の苦しみや悲しさが画面へ浮き彫りにされていく。現代のアメリカ社会の一端がここに窺える。

そして、スタイリッシュな映像が美しい。暗闇での照明の当て方や、燃え広がった屋敷の炎など、息を飲むような美学に満ちている。これだけでも、大いに見応えがあった。

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2006/02/26

しあわせな孤独

製作年:2002年
製作国:デンマーク 
監 督:スザンネ・ビエール

女性コックのセシリと博士号取得を目指すヨアヒムは婚約したばかりで幸福な日々を過ごしていた。だが、ヨアヒムはセシリの目の前で交通事故に遭ってしまう。彼は一命を取り留めるが、全身不随になってしまう。それを知って以来、ヨアヒムは心を閉ざし、セシリまで拒絶してしまうのだが…。

交通事故を機会に出会う二人。被害者と加害者だが、当事者同士でなくその婚約者とその夫という間接的な関係が、微妙な距離感を生む。傷ついた心の救済を求める者と救済を与えたいと願う者という意識の一致。二人が会うことに正当な理由が生まれ、ニルスの家族も拒むことができない。二人は障壁なく共に時間を過ごし、結果的に惹かれ合ってしまう。恋はどこから始まるか分らない。

ファースト・シーンとラスト・シーンに出てくる街が陰画のように映されている。ある日、自分の住んでいた世界が一つの事件を切っ掛けに全く違って見えてしまう。彼女の心象風景なのであろう。

傍役の設定が充実している。ヨアヒムの暴言を耐えて処置を続ける看護婦、事故を起した自責の念でより強く父親にぶつかってしまう娘、この両者の存在が、ただの不倫ドラマに留めておかず、深い人間洞察に満ちた作品へと昇華させていく。

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2006/02/23

ライフ・イズ・ミラクル

製作年:2004年
製作国:セルビア=モンテネグロ/フランス
監 督:エミール・クストリッツァ
出演:スラヴコ・スティマチ ナターシャ・ソラック
   ヴク・コスティッチ ヴェスナ・トリヴァリッチ

1992年ボスニア。セルビア人のルカは鉄道技師。息子ミロシュは突然軍に招集され、妻は別の男と駆け落ちしてしまい、一人ぼっちになる。やがて内戦が勃発、ミロシュが捕虜になったとの報せが届く。ムスリム人のサバーハが村人に捕まり、ミロシュとの交換要員としてルカが身柄を預かることになるが…

何にも知らされないで、いきなりこの映像を見せられても、クストリッツァ監督の作品であるとわかるであろう。喧騒的なジプシー・ブラス。生き生きとした動物たちの姿。ハイテンションな登場人物たち。いかにもいかにもというクストリッツァ監督の特徴に溢れている。ハチャメチャで即興的な作りのように見えるが、感情表現など緻密で繊細に描かれている。

ルカとサバーハが結ばれるまで、ルカは自分の気持ちを把握できず、突然に怒り出すところが印象深い。彼女に惹かれていく感情と、捕虜である彼女と結ばれてはいけないという理性が拮抗し、彼の中でバランスが取れなくなる。そして、些細なことが契機となってストレスを怒りに変換させて発散させている。

最初の頃に病院で二人がストレッチャーに乗って廊下を暴走するシーンも巧い。二人が運命のカップルであることを予感させるし、後半でベッドに乗って空を飛ぶ空想シーンの予兆となるものだ。

ロバも絶妙に使われている。いつの間にかルカと行動を共にして、彼にいくところに姿をあらわしている。仕事を放棄する。失恋して涙を流す。線路に立ちふさがる。まるで、ルカの人生を予言しているようだ。そして、あのラスト・シーン。このロバはルカの守護神なのであろうか。

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2006/02/21

ハリー・ポッターと炎のゴブレット

製作年:2005年
製作国:アメリカ
監 督:マイク・ニューウェル

1作目の頃のような無邪気さは陰を潜め、思秋期の混沌が彼らを覆っている。特徴的なのは、応募資格のないはずなのにハリーが三大魔法学校対抗試合の代表選手に選ばれたと知って、ロンが凄まじい怒りを抱くとことだ。ハリーのことを充分に知っているはずなのに、特別な方法を使って抜け駆けしたと盲信してしまう。不正を許せないのでなく、自分へ秘密にしていたことが許せないのだ。

傍観者から見ればハリーがそんなことはしないのは明らかになのに、当事者同士では見えない壁を勝手に築いてしまう。そこが興味深い。ハリー・ポッターは孤高のヒーローでなく、仲間から助けられて盛り立てられるヒーローだ。危機に瀕したとき、自分独りの力ではなく、誰かから救いの手が差し伸べられる。

そうしたことが続き、どことなく物足りなさも残るわけだが、何故ハリーはそうして仲間達から救われるのか。その答えの一端が本作品の中に描かれている。彼自身が危機の時、身の危険を顧みず仲間を救おうとするからだ。「与えよ、されば与えられん」という言葉が思い出される。

本作品のマイナスポイントは期待の高まる重要なシーンがかなりカットされて、あまり本筋に絡まないエピソードが盛り込まれているところだ。

まず、最初のクィディッチ・ワールドカップ決勝戦の模様が入場シーンだけでカットされてしまっているところ。ここでは魔法競技大会に登場するビクトール・クラムがいかに優秀な選手なのかたっぷりと描いていないと、ホグワーツ魔法学校に彼がやってきた時のロンの驚きが彼だけのものに終り、観客と共感できないのだ。

また、魔法競技大会の第一競技、ドラゴン金卵奪取戦では前3人の描写がない。3人のそれぞれの戦い方やドラゴンの動き方など、一つの定形がないと、ハリーの時の異常さが伝わってこないのだ。その一方で、ハリエットの恋の顛末など省いても支障はなかった筈だ。

そうしたことが他にも多々見られる。ただエピソードの羅列に終始し、ドラマとして大きな流れを産みまでに至っていない。

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2006/02/20

ベルリン、僕らの革命

製作年:2004年
製作国:ドイツ/オーストリア 
監 督:ハンス・ワインガルトナー

ドイツ、ベルリン。ユールは借金をかかえアパートの家賃が払えなくなり、恋人ピーターの部屋に転がり込む。彼はピーターの15年来の親友ヤンと暮らしていた。ユールは最初ヤンを気味悪がるが、ピーターの旅行中、引き払うアパートの片付けをヤンに手伝ってもらってから親しくなっていくのだが…。

2005年11月にフランスで若者たちによって起こされた大暴動。その根底に流れるものは、本作品と綿密に繋がっていると思う。若者の反体制思想は、どこで爆発するか分からないものだ。現代の日本ではどうなのか。こういう暴動という形では発露しないかもしれないが、様々なストレスが溜まっているのは間違いない筈だ。理想の世界を築くことは容易でないが、現在の社会を否定するのは容易い。

金持ちは金持ちであるがゆえにますます金持ちになっていく。本作品ではその仕組みの一端が窺えた。交通事故が起きる。富める被害者はその対応を弁護士に任せしっかりと補償を勝ち取る。一方、貧しい加害者は保険にも加入しておらず、事故の賠償金を支払うために家賃も払えなくなってしまう。単純計算で5年間分の賃金に相当するその金額も、金持ちにとってはわずかなものでしかない。それでも、被害者は払い続けなければならないし、金持ちはそんな事情すら知らないでいるのだ。

本作品のポイントは、誘拐された金持ちが昔は反体制闘士であったということである。彼がなぜ反体制思想をなくしていったのか。それが興味深い。彼らの監禁生活は、誘拐される、誘拐したとの関係を曖昧にしていき、一つの共感を抱くまでに至る。若者たちは自分の未来の姿を感じ取るし、金持ちは過去の自分を垣間見るのだ。だが、その共感は特殊な状況が招いた一時のことであった。苦さとかすかな希望を感じさせるラスト・シーン。

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2006/02/19

私は「うつ依存症」の女

「私は「うつ依存症」の女」★★★★
(GyaO)2001年アメリカ ドイツ 
監督:エーリク・ショルビャルグ
原作:エリザベス・ワーツェル
出演:クリスティーナ・リッチ ジェシカ・ラング
   アン・ヘッシュ ミシェル・ウィリアムズ

1986年。リジーは晴れてハーバード大学の入学が決まる。彼女は教育熱心な母の過度な期待や音信不通の父との関係など精神的負担を抱えている。ルームメイトのルビーと仲良くなり、ローリング・ストーンズ誌から執筆を依頼されるなど大学生活を順調に送っていたのだが…。

うつ病というのは特殊な病気ではないと思う。どうしようもなく無気力になってしまい、どこにも出かけたくない、電話にも出たくない、片付けなければならない用事も放り出してしまう。昔を振り返ると、そういうことが私にもあった。その頻度と深度の違いだけなのであろう。私自身、最近はそんな無気力状態になることも少なくなったが、これも経験の積み重ねであろうか。

ラスト・シーンで原題にもなった“プロザック”という抗うつ剤の使用量がアメリカ社会の隠れた側面を浮き彫りにする。彼女が症状を悪化させていくのは、両親の不和、母親の過剰な期待、父への慕情ということもあるのであろうが、自分の存在意義を把握しきれていないからでないであろう。

文才があると思っているのに全く書けなくなってしまうことでリジー(クリスティーナ・リッチ)は病気を悪化させてしまう。自分独りでは物事に対処しきれず他者に救いを求める依存性と、そんな弱さに憐れみをかけられたくないという頑迷性が拮抗し、より一層彼女を孤独にしている。

ファースト・シーンが印象深い。ハーバード大学へ旅立つ日、全裸のままベッドに呆然と腰掛けている娘と、娘の前途ある未来を嬉々として語る母親。この異質さが突出している。二人の関係が尋常なものでないことが最初から分かってくる。

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2006/02/18

マザー・テレサ

製作年:2003年
製作国:イタリア/イギリス 
監 督:ファブリツィオ・コスタ

1946年、インドのカルカッタ。カトリック修道院のマザー・テレサは数々の問題をおこしダージリンの修道院へ転院することになる。その移動の途中で彼女は神の声を聞いてしまう。自分の居場所が修道院の中ではなく貧しい群衆の中にあると悟ったマザー・テレサはカルカッタに戻り修道院の外で活動を開始するが…。

気付いてしまうことの不思議さ。老人が横たわっている姿を見たとして、無関心で通り過ぎていく者もいれば、そこに神の存在を見出すものもいる。気付く事ができるというのも才能である。

「神が望むならうまくいく。望まないならあきらめるだけ」というマザー・テレサの思考法が単純明快で清々しさを感じる。トラブルが起こっても簡単に乗り越えていくように見えるが、それは彼女を助けようと周囲の人々が動いてくれているのだ。彼女は頑固であるけれど実に聡明でユーモアのある人物として描かれている。彼女は貧困と飢えに苦しむ人々を助けたいという崇高な意志を示すが、彼女の人柄に魅了されて周囲の人々が行動していくのだ。

終盤になって、晩餐会の費用がいくらとか、ミネラル・ウォーターの値段がいくらとかマザー・テレサが問い質すシ-ンが続く。単にお金に細かいということでなく、あの年になっても実務に携っていることが分かるし、最後までボランティア活動を組織化することに反対してきた理由の一端が伺える。

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2006/02/15

オープン・ウォーター

製作年:2003年
製作国:アメリカ
監 督:クリス・ケンティス

お互いに仕事が忙しいダニエルとスーザンの夫婦は、なんとか休暇を取ってカリブ海へ向かう。二人は沖合のポイントまでボートで向かうダイビング・ツアーに参加する。このボートには多数のダイバーが参加し盛況だった。ダイビングを満喫し海面に上がってみると、ボートは帰ってしまったのだが…。

置いてきぼりになる。忘れ去られる。気付いてもらえない。自分という存在を否定されてしまうことも恐怖の源泉のひとつであろう。本作品は鮫に襲われるという肉体的恐怖と同時に、そうした精神的恐怖も描かれているのが秀逸だ。

ファースト・シーンも巧い。男女が別々に電話で話していて別の場所にいるような感じを抱かせているが、実は同じ家だったという軽い驚きから始まる。夫婦間に漂っている表面化していない漠然とした不満感、価値観の違いが最初のシークエンスで見事に描かれている。

夜の海の場面では、雷の稲光で二人を映すところにも唸らされた。その光が途切れ途切れにしか残っていない彼らの生命力や希望を象徴しているようであった。

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2006/02/13

さよなら、さよならハリウッド

製作年:2002年
製作国:アメリカ
監 督:ウディ・アレン

アカデミー賞を二度も獲得した実績を持ちながら今ではすっかり落ちぶれてしまった映画監督のヴァル。ある時、彼のもとに「眠りなき街」というメジャー作品の監督のオファーが舞い込む。この映画のプロデューサーはヴァルと離婚したエリーで、周囲の反対をなんとか説得し、彼の起用を決めるのであるが…。

シニカルな視点の効いたお馴染みのウディ・アレン映画であるが、コメディとしてもなかなかの仕上がり。ありきたりではあるが、軽快なテンポと意表を付く展開で、クスクスと笑える。

本作品で特徴的なのは、息子との確執がサイドストーリーとして盛り込まれていることであろう。今までは見た目で判断し息子の音楽活動を否定してきたことが、盲人となったことで自分の独り善がりな価値観であったことに気付いていく。

それは息子との関係でなく、映画製作の面でも別れた妻エリー(ティア・レオーニ)との関係でも同様と言える。ヴァル(ウディ・アレン)の気付きはその後の生活の中でまた失ってしまうかもしれないが、この瞬間を迎えることが出来ただけでも彼は幸福であるに違いない。

いい台詞が一つ。再び目が見えるようになったとき、一緒にいたエリーに「なんて君は美しいんだ」と大興奮のヴァル。今まではブスだったのというエリーに対して「昔はプリティーだったが、今はビューティフルだ」と返す。洒落た会話でいいなぁと思う。

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2006/02/11

エリザベスタウン

製作年:2005年
製作国:アメリカ 
監 督:キャメロン・クロウ

シューズ会社に勤務するデザイナー、ドリューは長年開発に打ち込んできた画期的なシューズが大損害を招き、解雇されてしまう。生きる望みを失い自殺しようとするドリューに、故郷を訪れていた父が亡くなったという報せが届く。父の葬儀のためにケンタッキー州の小さな街エリザベスタウンへと向かうのだが…。

陽気でお節介焼きのフライト・アテンダント、クレア(キルスティン・ダンスト)によってドリュー(オーランド・ブルーム)の傷心が癒されるという話である。だが、ドリューが人恋しさからであったとしても、彼のほうからクレアに電話したのがポイント。運命は変えるのは自分自身である。

後半にもってきた南部の旅が興味深い。ドリューが再生するのはエリザベスタウンであっても良かった筈。それをあえて南部の名所観光のような自動車旅行を用意したのは、アメリカの歴史を辿りながら、そうした流れの中に自分がいることを認識させたかったのだろう。かつて自分の父と旅した思い出と共に。そして、父に別れを告げるために。結果として自分のアイデンティティーを見つめ直すことになるのだ。

クレアが何度もカメラのシャッターを切る真似をしている。これはオーランドの言う“最後の視線”に相対するものだ。二人は脈絡もなく会っているようであるが、別れの時にもう2度と会えないかもしれないという思いを抱いている。常に別離と孤独を心に秘めているからクレアが切なく見える。

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2006/02/08

ダーク・ウォーター

製作年:2004年
製作国:アメリカ
監 督:ウォルター・サレス

離婚調停中のダリアは5歳の娘セシリアの親権を得るため家賃の高いマンハッタンを離れニューヨークのルーズベルト島へとやって来た。薄暗く不気味な雰囲気の漂うアパートだったが、近くにいい学校もあってここに越してくる。こうして、母娘ふたりの新生活が始まったのだが…。

幼少のダリアが雨の中、母が迎えに来てくれるのを待っている。それをファースト・シーンにもってきたところが絶妙に巧いと思う。彼女のトラウマの説明であるし、ナターシャの思いとも重なっている。ダリアがナターシャに選ばれた理由はここにあると思う。

水自体は清く聖なるイメージがあるものだが、どこかで流れがせき止められたりすると、どんどん汚濁してしまって禍々しさが強まってしまう。ナターシャの恨みが汚水となって強烈に表現されている。

オリジナル版の「仄暗い水の底から」(2001)を既見しているのでドラマ展開を知っている。そのため、細部がじっくりと見られ、ウォルター・サレス監督の演出力の高さに瞠目することになる。アパートの寂しげな風景が何度も挿入されているが、ある施設がさりげなく映されている。そのさりげないところが実に巧妙だ。娘の髪を三つ編みにする場面の反復も効果的であった。

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2006/02/07

ブラザーズ・グリム

製作年:2005年
製作国:アメリカ/チェコ 
監 督:テリー・ギリアム

19世紀のドイツ。グリム兄弟は各地の村を旅して村人たちを苦しめている恐ろしい魔物を退治し、賞金を手にしていた。だが、魔物は兄弟とその助手たちが作り出した偽物であった。とうとう、グリム兄弟はドゥラトンブ将軍に逮捕されてしまう。二人はある村で起きている少女連続失踪事件の解決を命じられるのだが…

ファンタジーは厳しい現実の中から生まれてくる。哀しい結末を前にして、幸福な別の世界を夢想する。そのことからたくさんの物語が生まれてくるのだろう。哀しい結末を知っているものが世界中にたくさんいる。だから、今なおファンタジーは支持され創造されつづけている。それがラスト・シーンの鴉と鏡によって表現されているのだろうか。

本作品が見ごたえあるのは、グリム兄弟の葛藤がドラマの中軸となっているからだ。ファースト・シーンで描かれている幼少の頃のエピソードが効いている。現実社会ではファンタジーを信じて行動すると取り返しのつかない結果を迎える。ジェイコブの失敗は二人の関係を決定付けてしまった。兄は弟を一切認めないし、弟は兄を乗り越えて自分の道を進めないでいる。

そのフラストレーションの頂点で今度の事件を向かえることになる。兄弟が新しい関係へ変わっていく姿がこのドラマを力強くしている。

拷問は芸術というイタリア人カヴァルディ(ピーター・ストーメア)がユニークな存在感。イタリア人が芸術関係でフランス社会へ大きな影響を及ぼしている。「王は踊る」(2000)などを思い出す。

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2006/02/06

奇談

製作年:2005年
製作国:日本 
監 督:小松隆志

1972年。民俗学を専攻する大学院生の里美は最近奇妙な夢を見るようになっていた。ある時、資料探しで偶然見つけた渡戸村の教会の写真に驚く。渡戸村は東北の隠れキリシタンの里として知られ、そこに住む親戚の家へ小一の夏休みに預けられていたのだ。彼女はその頃の記憶をすっかりなくしていたのだが…。

本作品のプロデューサーが一瀬隆重であるのがポイント。「リング」(1998)、「仄暗い水の底から」(2001)、「呪怨」(2002)と、現在のジャパニーズ・ホラーを隆盛させた立役者の1人である。その一瀬プロデューサーが「ノロイ」(2005)に続き恐怖の源泉を日本の土着宗教に求めたところが興味深い。

ストーリーを別にしても、その禍々しい雰囲気だけでゾクゾクするような恐怖心を呼ぶ。隠しキリシタンが土着化し既存の宗教を渾然一体となって独自の信仰へと変質していくという設定だけでも伝奇ロマンの興趣が広がる。

生命の木の実を食べた子孫と知恵の木の実を食べた子孫。どちらが幸せかという問い掛けがあるのだが、この比較は無意味であると思う。どんなに願ったとしても違う人種にはなれない以上、混沌とした中で人は生きていかねばならないのだ。

冒頭の里美の夢に出てくる少年の姿は過去の記憶かもしれないが、同時に村の長老のような予知能力であったかもしれない。少年が手を振る様子は様々な解釈を生ませる。

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2006/02/05

五瓣の椿

製作年:1964年
製作国:日本
監 督:野村芳太郎

常盤津の三味線弾きで人気絶頂の岸沢蝶太夫は身元不明の素人娘おりうに夢中だった。おりうは際立つ色気で蝶太夫を翻弄していた。ある夜、おりうは蝶太夫とむさし屋の内儀おそのに関係があったことを確認すると、蝶太夫を平打の銀かんざしで一突きにして殺害してしまう。枕許に一片の椿が残されていたのだが…。

第9回みちのく国際ミステリー映画祭の関連イベントで「野村芳太郎の遺産 作品、あるいは人」という追悼ビデオ作品を観た時に、本作品のことが出てきました。野村監督が自ら映画化に向けて力を注いだということでありました。未見の作品だったので気になっていたところ、衛星放送で放映されまして喜び勇んで鑑賞しました。

その期待に応えてくれる力作でありました。“御定法で罰することの出来ない罪”とはいかなるものであるのか。この問題提議が本作品をただの復讐ドラマに留めておかず、奥深い人間ドラマに昇華させている。復讐の行為は自分の望まない別の悲劇を産む。無念は無念としてどこかで切り捨てることが必要なのであろうか。

冒頭の芝居シーンが印象深い。役者でなく常盤津の三味線弾きを見つめるおしの(岩下志麻)。彼女の復讐の念が隣の乳児に伝播し、火がついたように泣きだしてしまう。彼女の異質さが最初に強調されておりました。

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2006/02/02

メリンダとメリンダ

製作年:2004年
製作国:アメリカ
監 督:ウディ・アレン

マンハッタンのカフェで劇作家のサイとマックスは喜劇と悲劇について議論をかわしていた。仲間の1人が薄幸な女性メリンダがディナー・パーティーに突然現れる場面から喜劇と悲劇の話を作るよう提案する。二人はそれぞれのメリンダを語ることで自説の正しさを証明しようとするのだが…。

悲劇と喜劇は全く別物ではない。二人のメリンダの物語は悲劇でもあり喜劇でもあるように感じられる。対極の世界を描いているようで、実は何も変わっていない。ブラックユーモアという言葉もあるように、悲劇的な事柄であっても、見方を少し変えれば笑えてしまうことは往々にしてあるものだ。

ドラマの話自体は、いつものウディ・アレン作品と変わらない。二つのドラマが平行して進行していくところが新しい趣向となっている。そのドラマがバラバラなようで、基本線が重なっているところが楽しい。

本作品に出演しているウィル・フェレルやクロエ・セヴィニーなど非常に個性の強い俳優たちであるが、ウディ・アレン映画の住人として違和感を覚えないところが凄い。こういうところに監督としての手腕の高さを感じる。

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2006/02/01

イン・ハー・シューズ

製作年:2005年
製作国:アメリカ
監 督:カーティス・ハンソン

マギーは素晴らしい美貌を持ちながら難読症のため定職に就けず自堕落な生活を続けていた。姉のローズは弁護士として成功し、マギーがトラブルを起すたびに彼女が面倒を見ていた。姉妹の母親は幼少の頃亡くなり、父親は再婚していた。折り合いの悪い義母に追い出された妹をローズは自宅に仕方なく居候させるが…。

互いが互いに依存し合っている存在。それがローズ(トニー・コレット)とマギー(キャメロン・ディアス)の姉妹であったと思う。トラブルばかり起す妹に手を焼きながら、その事によって姉の心はバランスを取ることができていたのだ。二人が距離を置いたときから、自分自身を見つめ直し人生の転機を迎える。この二人だけでない。祖母も父親も彼女たちの影響を受けて変わり行く。このテーマの複合性が深い余韻となって心に残り続ける。

ローズが婚約者のサイモン(マーク・フォイアスタイン)にマギーの事を隠そうとすればするほど、二人は心を通わさなくなっていく。大切なものを守ろうと頑なな態度を取りつづけることが、別の大切なものを失ってしまう皮肉さ。限りなくこだわりを捨てて心をオープンにできれば苦労はないが、そうできないからこの世に様々なドラマが生まれる。

シャーリー・マクレーンの演技に感心した。本作品のエラは彼女がかつて演じてきた「愛と追憶の日々」(1983)のような登場人物の性格を引き継ぐ人物であった。そういう映画的記憶を加味して、彼女のちょっとした仕草や表情が様々なものを観客に伝えてくれる。

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